武将像
仏胴具足着用 真田幸村 開発背景
真田三代を結集した武将、真田幸村 一五六七年、真田昌幸の次男として生まれる。 信濃国小県郡の小大名だった祖父・真田幸隆は武田信玄に仕え、 武田二十四将として名を馳せた。父・真田昌幸もまた信玄の勲等 を受け、調略・謀略を得意として徳川軍を二度にわたって打ち 破っている。 偉大な祖父・父を見ていた幸村もまた、真田の一族として相応しい 活躍の場を求めた。一六〇〇年、関ヶ原の戦いでは父・昌幸とともに 西軍に属し、居城・上田城を死守。わずか二千の兵で徳川秀忠 率いる三万八千の大軍の西上を阻止した。戦後、高野山(九度山)に 十四年もの間蟄居させられるが、一六一四年、豊臣秀頼に請われて 大坂城に入城。大坂冬の陣では出城“真田丸”より奮戦し、東軍に 甚大な被害を与える。翌年夏の陣では、伊達軍を破り家康本陣に 攻め込み奮戦した。豊臣へ忠誠を尽くし、一六一五年に没。 四百年以上にわたり、他に類のない英雄として語り継がれる。 |
“大坂夏の陣”戦いの終焉 静謐な座像に幸村の心象を投影 幸村の存在が無ければ、後世までこれだけ真田氏が広く武家の理想 と語り継がれることは無かっただろう。 関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠を足止め、遅参させたことで高野山に 幽閉となる。祖父・父の才を確かに引き継いでいながら、充分な戦場 が与えられなかった幸村には、深く鬱屈した思いがあったに違いない。 幸村には使う術のない戦略が溢れていた。 その最後に訪れた機会が【大坂の陣】であったはずだ。 幸村率いる真田軍は、大坂城「真田丸」から圧倒的多数の徳川軍に 寡兵で立ち向かい、家康本陣にまで迫る驚くべき奮闘をみせる。 苛烈な戦いに挑んだ幸村に思いをはせると、歴史に名を残すに充分 な功績を立てた誇らしさと充足感、それと共に人の運命のはかなさが 交錯する.。 |
作家 / 海野 宗伯(うんの そうはく) 1962年生まれ。 幼少時より日本の伝統美術に深く興味を持ち、美術研究と古美術 取集を行う。その後、日本美術の中でも特に戦国安土桃山期の 造形美と思想に魅せられ、禅、茶道や水墨・金壁障壁画をはじめ 甲冑・武具・装束など日本文化に多大な影響をもたらした戦国大名 に特に興味をもち徹底した研究と資料収集を行う。 90年代頃より安土桃山の造形美を求めて甲冑や武将像の制作を 開始。日本を代表する甲冑師・三浦公法氏に依頼し、共に世界で 初めてとなる本物と同素材・同製法による幸村1/4創作鎧を完成。 のちに精巧な鎧装束の武将彫像作品を制作する。 |
【略年表】――――――――――――――――――――――――――――――――――― 1990年頃より 戦国安土桃山期を中心とした思想が反映された造形美を求め、武将像や甲冑、着物、漆器等の 独自制作を開始。 1997年 日本を代表する甲冑師・三浦公法氏に依頼し、世界で初めて当時と同様の製法と素材により1/4 創作鎧「織田信長」を制作完成させる。その後、創作鎧「上杉謙信」「武田信玄」「真田幸村」を順次制作。 2000年 鎧の制作に並行して新たな武将像を求め、武将の人体の彫刻から研究し戦国武将像の制作を開始。 戦国武将等の絵画制作を開始。 2002年 織田信長、真田幸村・伊達政宗の武将像プロトタイプを順次制作完成、発表。 2007年 面頬を輪島漆の装飾で飾る面頬シリーズや桃山の造形美を求めた漆器、茶器を制作。 2013年 仏画の制作を開始。 2015年 真田幸村を中心とする戦国造形美の企画展展開を決定。 2016年 1月12日~大阪タカシマヤにて第一期企画展開催。 *過去実績 大丸東京店(美術画廊)、銀座松坂屋(美術画廊)、日本橋丸善(美術画廊)などにて企画展開催 |
(社)日本甲冑武具保存協会 (元)専務理事/(現)顧問 |
制作への思い
真田は夏の陣において、家康本陣の旗を倒す程に奮戦した。 家康本陣の旗が倒れることは、三方ケ原以来ないことで、その戦ぶり は敵方でさえ「真田、日本一の兵」と称賛した程。まさに武功によって 名を残したのである。しかし、幸村について研究を行うにつれ、伝記や 小説に描かれる猛々しいイメージとは違った繊細な人間像や、戦術と 用兵に長けた冷静な武将の姿が浮かび上がって来た。 あえて戦う像にしないことで、より真実の幸村に迫る像にした。 日本の甲冑技術は、世界で高い評価を得ていながら継承に問題を 抱えている。作品制作にあたり、当世具足の第一人者で甲冑師の 三浦氏に協力を依頼、1/4サイズで本物の鎧と全く同素材・製法 を用いて鎧を制作し造形の基本とした。 現存する確実な資料を頼りに、鎧本来の構造を正確に再現した像となる。 鉄・漆・革など複合素材を用いる日本の鎧ならではの質感も多くの技術 と時間を費やし精巧に再現した。この立体彫像はそれら日本の技を、 美術作品として後世へ残すものと考えている。 作 海野 宗伯 |
鉄砲の弾や槍を受け流しやすく、実戦向きとして戦国期によく用いられた。真田幸村の装束は現存資料の他、真田氏が
後に仕えた武田一族の高位の武家に残される鎧などを複合的に研究して参考としている。また、一部幸村のイメージ
を重要視してオリジナルの創作・装飾も加えている。
【 造 形 】
造形の各部を歪みなく正確に複製し、磨き、形を整え、組み、彩色する。その工程は膨大で、時間はもちろん、職人の
技術も必要となる。鎧装束のしっかりとした考証的見地を備えた正確な彫刻作品という点において、本作は他に類がない。
またこれだけの鎧を細部にわたり精巧につくり上げる技術も含め、美術品として、また工芸品として価値ある作品と言える。
【 彩 色 】
まとめ上げる高度な彩色仕上げは、作家の技術が如何なく発揮されている。瞳の描き入れ、また兜の装着、紐結いなど
すべて手仕事。幸村像の目には生命感を宿す輝きを再現。その一作にかかる制作時間はおよそ40時間におよぶ。
【使用素材】 |
【彫像素材】
ポリストーン(合成樹脂/石粉) 人工石とも呼ばれるポリストーンは、欧米で美術品・室内装飾品に用いられる素材。 重さや質感は石に似ており堅牢で、熱変形に強く、長期にわたり保存性・形状維持に 優れている。当社では、流動性の高い最高品質の素材を用いて制作をおこなっている。 それにより、鎧の細部の造形まで、精巧な再現が可能となる。最高品質の素材を使用。 |
工房にて少数手作りされる幸村像化粧箱には、限定制作のシリアル番号入り。
けっして大量生産できない、限定制作であることを示している。
仏胴具足着用 真田幸村武将像 【限定制作50体】 商品番号 SA-009 販売価格 200,000円(税別) ●サイズ : 約幅29×奥39×高36.5cm(台座含む) ●素材 : ポリストーン(合成樹脂,石粉)、紐、金属等 ●付属品 : 「仏胴具足 真田幸村公」立札、専用化粧箱 ●製造国 : 日本 / ●本体重量: 約5kg |
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<別売品>真田幸村像 専用ケース 商品番号 SA-010 販売価格 50,000円(税別) 埃や破損から作品を守る専用ケースをご用意しました。 サイズ : 約幅34×奥44×高40 cm(台座含む) 日本製 (受注制作・約2週間) |
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【真田庵 奉納作品 ”仏胴具足 真田幸村像”】 「真田庵」は 善名称院 真田庵 とも呼ばれ、真田幸村父子の屋敷跡に 建てられた寺院。戦国の武将真田昌幸・幸村父子が隠棲した屋敷跡 として、県の史跡指定を受けています。 六文銭の紋が刻まれた門をくぐると本堂があり、本尊には地蔵菩薩、 境内には開山堂、土砂堂、真田宝物資料館や、真田昌幸の墓のほか、 与謝蕪村の句碑があります。 本作”仏胴具足 真田幸村像”は境内 真田宝物資料館にて閲覧が 可能です。 <善名称院 真田庵へのアクセス> 南海電気鉄道 高野線 九度山駅より徒歩約10分 真田宝物資料館 入館料:200円 (要予約:団体でご住職の案内を希望される場合300円) 開館時間:午前9時~午後4時(年末年始以外無休) |
戦国武将像 真田幸村 開発背景
【真田、日本一の兵 と言わしめた名将】 自らの信念を貫き通した戦国最強の武将のひとり、真田幸村。 大坂の陣では、宿敵・徳川による大阪城攻めに際し、真田丸で 圧倒的多数の徳川の大軍に痛撃を与えました。 突進する真田の兵は数倍の徳川勢を蹴散らして家康本陣に迫り、 家康は死をも覚悟したとも伝えられます。 知略と勇猛さを兼ね備えた真田の戦いぶりは、敵方にさえ『真田、 日本一の兵』と賞賛され、その武名は日本中に轟きました。 戦にこそ敗れながらも、恩義に厚く、決して裏切らず、戦い抜いた 真田幸村はまさに武士のかがみといえます。 槍にからだを預けながら休息または瞑想する、名将の静かな一瞬 を立体化しました。 |
㈱謙信は、日本に数人しかいない甲冑師の技術を伝承するため、制作過程を記録するとともに、美術工芸品として事業化し
埼玉県の中小企業庁の「経営革新事業」にも認定されています。 製品開発は1/4スケールサイズの復元鎧の制作からはじ
まりました。 甲冑師 三浦公法氏の制作協力により、時代考証を経た1/4創作鎧(真田幸村)をおよそ400万円で商品化し、
これまで十数体を受注により制作・販売を行いました。
【甲冑具足を制作】
当時、真田幸村が身に着けたと推測される丸胴型の鎧を、戦国期の鎧と同様の素材(鉄・漆・革など)で当時と同じ手法で
縮小再現した1/4縮小創作甲冑を制作しました。
【開発協力】 甲冑師 三浦公法氏
社団法人 日本甲冑武具保存協会 (元)専務理事/(現)顧問 日本で数人しかいない甲冑師のひとり。 昭和44年(1969)、日本甲冑 武具研究保存会より推薦甲冑師の指定授与。昭和50年(1975)、英国 ロンドン塔王室武具館所蔵、徳川家康より英国王ジェームス一世に 贈られた日本の甲冑の修理復元を受け、完成し同館に引き渡しました。 この他各地の甲冑の復元、修復、複製を手がけています。 |
真田幸村の鎧は伝来が定かな資料が極めて 少なく、真田氏が仕えた武田家に伝来する 重臣の現存資料や信州武将の共通特徴より 丹念に研究を行っています。 | 古頭形(こずなり)兜 実戦向きとして戦国期に流行した兜の形。 兜に特徴的な”眉“を打ち出す高度な技術。 |
驚くべきことに1/4鎧は、実際に装着して機能するか、1/4サイズの人体像に装着させた可動実験まで行っています。 |
本作「真田幸村 武将像」は、これらの甲冑復元を元にした資料的背景に誰もがいだく幸村の想像・イメージを融合させ、
オリジナルでつくりあげた武将像です。 本物の甲冑制作を基に造形化して いる当社だからこそ実現できる造形です。
【兜 古頭形(こずなり)】
実戦的な頭の形を模してつくられる本兜では特に“まびさし”部分に特徴的な眉が
打ち出されています。真田が仕えた『武田家』の信州武将に共通する特徴や、武田家
の重臣であった武将の保存状態の良い甲冑装束を実際に調査して、それを基に詳細に
研究を行いました。このような力強い眉の形状をつくりだすには高い技術が必要と
されます。このような兜は実戦向きであるとして戦国期に流行し、徳川家康、
井伊直政、立花宗茂、千利休など様々な人物が頭形を原型としてそれぞれ独自の
装飾を施して変わり兜などとして用いています。
【鹿角(脇立)/六文銭(前立)】
屏風に描かれる姿や、「大坂の陣で鹿角の兜をかぶり、戦功を立てる…」 といった
史料が残されていることから、真田幸村が鹿角の兜をかぶり、戦いに挑んだことは
確かなようです。兜の前立てには”三途の川の渡し賃”とされる、真田家家紋の
六文銭を用いました。
【十文字槍(じゅうもんじやり)】
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れた真田昌行・信繁父子は、
九度山に移され長い蟹居生活を送りました。その善名称院(別名:真田庵)の真田
宝物館に十文字穂先が残されています。
戦国期・馬上でも使われた長さ1間半(約2.7m)の槍をイメージし、32cmもの迫力の
長さの槍を幸村像に付属させました。