“戦国最後にして最強の武将”
幸村の存在が無ければ、後世までこれだけ真田氏が広く武家の理想と語り継がれることは無かっただろう。
信濃国小県郡の小大名だった祖父・幸隆は武田信玄に仕え、武田二十四将として名を馳せた。
また父・昌幸もまた信玄の薫陶を受け、調略・謀略を得意として、徳川軍を二度にわたって打ち破っている。
天下人、豊臣秀吉にも臆せず渡りあるく父を見ていた幸村にとって、自らもまた
真田の一族として相応しい活躍の場を求めたことだろう。
しかし、関ヶ原の戦いで東軍勢力の徳川秀忠を、父とと共に足止め、
遅参させたことで高野山九度山に十四年もの間蟄居させられた。
祖父・父の才を引き継いでいながら、充分な戦場が与えられなかった幸村には、
深く鬱屈した思いがあったに違いない。
しかし、智将 昌幸直伝の戦術と、人質時代の秀吉からの薫陶は時を経て幸村を大きく成長させていた。
そして、その幸村に最後に訪れた人生最高の好機が【大坂の陣】であった――
本作はそんな幸村の想いを背景に、彼の心情を深く投影して作り上げた作品である。
決戦に敗れた最期の姿
本像は、家康本陣に肉迫した大坂夏の陣にて奮戦ののち敗退し、現在の安居天神付近で幸村が最期を覚悟した姿を再現しています。 戦国の終焉となる大坂の陣で、幸村が率いる赤備えの真田軍は、数で圧倒する東軍・徳川に
寡兵で立ち向かい、 ついには徳川家康の本陣に迫る大奮闘を見せます。
長兄とたもとを分かった関ヶ原の後、十四年もの長い蟄居(幽閉)生活を耐えしのび、
寄せ集めにすぎない浪人たちを見事にまとめ上げての戦いぶりは、薩摩の島津家久に
「真田日本一の兵」と言わしめました。
その功績は、武田二十四将として武田信玄を支えた祖父・幸隆、徳川家康を何度も恐れさせた父・昌幸の功績をもしのぐ
真田三代の武勇を結実させた結果とも言えます。
一時は名もなきまま消えてゆく運命かとも思われたわが身が、真田の名に恥じることのない、
華々しい功績を打ち立てることができた充足感、
そしてまた西軍の敗退と共に消えゆく自らの運命を思う寂寥感―その複雑な心象が作品へ投影されています。
仏胴具足を着用。
『仏胴具足』とは仏像の滑らかで継ぎ目のない胸に似ていることに由来しています。
鉄砲の弾や槍を受け流しやすく、実戦向きとして戦国期によく用いられました。
真田幸村の鎧は、時代考証的に確かと思われるものが現存しておりません。
よって鎧については、甲冑師の三浦公法氏(甲冑武具保存協会 顧問)のご協力を頂きました。
各種の現存資料の他、真田氏が後に仕えた武田一族の高位の武家に残される鎧などを
複合的に研究して参考としています。
それをもとに1/4サイズで本物の鎧と全く同素材・製法を用いて鎧を制作し
本作品の造形の基本といたしました。
家紋前立てなど装飾には“幸村”のイメージを重視した創作も加えております。
当時の鎧本来の構造を正確に再現した像であり、鉄・漆・革など複合素材を用いる日本の鎧ならではの
質感も多くの技術と時間を費やし精巧に再現しました。
この立体彫像はそれら日本の技を、美術作品として後世へ残すものと考えています。
本作はすでに多くの立像や画像に多大の影響を与えています。
本作品を制作した作家の想い。
作家・海野 宗伯(うんの そうはく)は有名武将の甲冑の大半が失われ、実像が分からなくなっていることに危機感を覚え、
安土桃山の造形美を後世へ残すため研究と創作を開始しました。
30年以上にわたり戦国大名と戦国美術の研究を行い、戦国期の鎧の研究をもとに、
出来うる限り正確に甲冑装束の出で立ちを再現した彫像を制作しています。
――真実の真田幸村像に迫る
真田は夏の陣において、家康本陣の旗を倒す程に奮戦しました。
家康本陣の旗が倒れることは、三方ケ原以来ないことで、その戦ぶりは敵方でさえ
「真田、日本一の兵」と称賛した程でした。
まさに武功によって名を残した将です。
しかし、幸村について研究を行うにつれ、伝記や小説に描かれる猛々しいイメージとは違った
繊細な人間像や、戦術と用兵に長けた冷静な武将の姿が浮かび上がってきました。
真実の幸村像に迫るため、あえて戦う姿ではなく座像を選び、武士の本懐を遂げた大坂夏の陣を想定し制作しております。
―日本の鎧をまとった武将たちの姿を後世に伝える
日本の鎧は大名ごとに他の国にない独自の美しさと機能性を兼ね備え、防具以上の精神性を伴っています。
日本の武将たちは己の信条や美意識を独特な形状の兜、また黒・赤・金といった華やかな色で表現し、
まさに華々しく死ぬための装束として戦場に臨んでいました。
目立つ装束で戦場に挑むのは、死を恐れず、戦場で見事に死ぬことこそ
本懐であると考える日本独自の武士の死生観に対する美学を反映しています。
生殺与奪―、すべてを決める権限をもち、自ら道を切り拓き、国をつくった戦国時代の大名たち。
大名たちがどのような姿かたちで戦国を生き抜いたのか、その臨場感に溢れる姿を
正確な考証と優れた造形美表現で再現しています。
生命ほとばしる、瞳の輝きを再現。
幸村像の目には生命感を宿す輝きを再現しています。
瞳の描き入れ、また兜の装着などすべて手仕事で行い、時間を掛けて丁寧に制作しています。
本作のような立体造形は、絵画など平面物に比べ
はるかに工程が複雑で制作が難しい面を持っています。
造形の各部を歪みなく正確に複製し、磨き、形を整え、組み、彩色する――その工程は膨大で、
時間はもちろん、職人の技術も必要となります。
真田の赤備えの彩色ひとつをとっても、同じ赤の中にも幅広い色調と質感の変化をつけており、
まとめ上げる高度な彩色仕上げは、作家の技術が如何なく発揮されています。
その一作にかかる制作時間はおよそ彩色だけでも40時間以上にもおよびます。
鎧装束のしっかりとした考証的見地を備えた正確な彫刻作品という点において、本作は他に類がありません。
またこれだけの鎧を細部にわたり精巧につくり上げる技術も含め、美術品として、また工芸品として唯一無二の価値ある作品と言えます。
【真田庵 奉納作品 ”仏胴具足 真田幸村像”】 「真田庵」は 善名称院 真田庵 とも呼ばれ、関ヶ原の戦いの後、 真田幸村父子の蟄居させられた屋敷跡に建てられた寺院。戦国の武将真田昌幸・幸村父子が 隠棲した屋敷跡として、県の史跡指定を受けています。 この地より幸村は大阪の陣へ向かいました。 六文銭の紋が刻まれた門をくぐると本堂があり、本尊には地蔵菩薩、 境内には開山堂、土砂堂、真田宝物資料館や、真田昌幸の墓のほか、 与謝蕪村の句碑があります。 本作”仏胴具足 真田幸村像”は境内 真田宝物資料館にて閲覧が可能です。 <真田庵 (伽羅陀山 善名称院)へのアクセス> 南海電気鉄道 高野線 九度山駅より徒歩約10分 真田宝物資料館:開館時間等は真田庵へお問い合わせください。 |
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※お使いのディスプレイ機器によって、異なる色に見える場合があります。
※サイズは試作品計測のため、製品と若干の誤差が生じる場合があります。
【製品仕様】
工房制作品 限定制作50体(シリアルナンバー入り)
※在庫残り僅か※ 現在、限定で1体のみを販売しております。
販売価格: 400,000円(税別)
サイズ : 約幅29×奥39×高さ36.5(cm)
素材 : ポリストーン(一部金属、ポリウレタン、特殊樹脂、金属、紐)
重量 : 約5kg
付属品 : 専用化粧箱, 立札「銘 仏胴具足 真田幸村公」(約縦12×幅4.5cm)
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*本作は、商品番号SA-002の改良作品です。